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房方 Fang Fang/北京の画廊『星空間』の現代アートセールスマン(アートディレクター)

1977年北京生まれ。生粋の北京っ子
2000年中央美術学院美術学科卒業
2000年~2005年、中国中央電視台(CCTV)にて現代アートを紹介する番組の記者に就く
2005年より画廊『星空間』のアートディレクター

http://www.stargallery.cn/

「作品をマーケットにのせ、各所に行き渡らせる」 R:房方さんは、星空間のHP、そして、ブログでご自身を「現代アートセールスマン」と名乗っていますね。それは何故ですか?

F:その呼び名の方がより的確だと思うからです。積極的にアートを商売することに、何かいけないことがあるんでしょうか?今、中国の現代アートに必要なのは、作品をマーケットにのせ、取引を経て各所に行き渡らせることだと思っています。

R:ご自身は、他の画廊のディレクターとはどのような点が違うと思っていますか?

F:私は大学でアートの勉強もしてきましたし、専門知識を充分有していると思っています。中国国内の大部分の画廊ディレクターは、元コレクターだったり、不動産関係者だったり、商売人が多いんですよね。そこが、そもそも全然違うかな。そして、画廊の未来を考えていない人が多いん。お金儲けができるチャンスとして、画廊経営をしているとしか思えないんです。

R:星空間は2005年にオープンしましたが、当時、北京にはすでに多くの画廊がありました。それでも何故、あえて画廊をオープンさせたのでしょうか?また、何故、798芸術区(*)を選んだのでしょうか?

F:一番の理由は、自分で好きに企画できる展示を開催したかったからでしょうか。美術館などではそうはいきませんからね。798芸術区を選んだ理由は、北京で最も現代アート色が濃くて、元気がいい場所だと感じたからです。また、2000年中央美術学院卒業の年に生まれて初めてキュレーションした展示の影響も強いですね。

R:どのような展示だったのですか?

F:当時、中央美術学院の同級生の中で、誰が一番優秀なアーティストなのか見てみたいという思いから、北京の雲峰画苑という画廊を借りて『二厰時代』という展示をキュレーションしました。1996年から2000年の間、中央美術学院が新校舎に移動するまでの4年間は、一時的に空いている工場で授業を受けたんです。その工場の名前が「二厰」。そして、工場で最後に授業を受けた2000年の同級を巻き込んでの展示でしたので、『二厰時代』と名付けました。当時、二人のクラスメートと一人1,000元(約15,000円、2008年4月現在)を出しあったのですが、もちろんそれだけでは開催できるわけもなく、スポンサーを探しました。なんとか開催にこぎつけたものの、1,500元(約22,500円、2008年4月現在)、当時の私の3ヶ月分の生活費を借金したんです。展示をキュレーションするという楽しみは味わいましたが、やはり、まずは安定した職業に就いたほうがいいだろうと思いましたね。

R:画廊のお話に戻りますが、星空間、この名前には何か特別な意味が含まれているのでしょうか?

F:ただの名前でしかありません。特別な意味はないです。ただ、私は張国栄(*)のある曲がものすごく好きなんです。確か『明星』か『繁星』という名前だったと思うのですが。歌詞が非常にいいんですよね。

R:星空間では、1970年以降に生まれたアーティストのみを扱っています。若手のアーティストばかりを扱っているのは何故ですか?画廊オープン当初、経験の少ない若手を扱うことに不安はなかったですか?

F:私は、同世代の人間の生活やアートに非常に関心があるんです。それが自然と私の仕事上で形になったということだと思います。もちろん、不安はありましたよ。ただ、私自身もまだ経験が少ないですから、ある意味、公平といえるかもしれないですよね。 「アーティスには、誠実さが必要」 R:アーティストはどのように探されたのですか?

F:2003年から記者の仕事をしながら、同時に、若手作家への投資も始めたんです。2003年8月22日だったと思うのですが、一人目のアーティスト、高瑀と契約を結びました。とにかく、資料を集め、作品を見てアトリエに足を運び、5年の歳月をかけてアーティストを発掘してきました。初めの1年は、2、3人の作家しか見つけられなかったですけどね。

R:アーティストと契約を結ぶ際、房方さんの中で、何か基準のようなものがあるのでしょうか?アーティストのどの点に注目をするのですか?

F:どこで見た言葉だったか忘れてしまいましたが、「アーティスであるには、最低限、誠実であること」。自分に向き合わず、また、誠実でなかったらいい結果はでないですよね。

R:星空間所属のアーティストたちは、他の画廊やスペース、メディアなどとコラボレーションしていますね。アーティストたちをコラボレーションさせるということは、房方さんにとってどのような意味があるのでしょうか?

F:まず、アートは皆と分かち合う必要があると思っています。アーティストをより大きな力で支持し、宣伝する必要があると思っていますので、コラボレーションに対しては非常に好意的ですね。また、新たな可能性が生み出されたらとも思っています。

R:今年5月にはスペースが拡大し、また、6月1日にはショップ『星百貨』がオープンしました。ショップでは、所属アーティストの作品をプリントしたTシャツやカップを販売していますが、アートを人々のより身近に、そして低価格で提供という思いがあるのでしょうか?

F:そうです。私は、アートには3つの楽しみ方があると思っています。一つ目は作品を購入し、コレクションすること。二つ目は、書籍や雑誌にして価値を広めることです。そして、三つ目は、生活に直に取り入れる。それは、アートを商品にして生活の一部にするということです。

R:房方さんご自身のお話を伺います。中央美術学院美術学科ご出身ですが、なぜ、美術学院に進学されたのでしょうか?幼い頃から美術が好きだったのですか?

F:はい、小さい頃から美術が好きでしたね。3歳頃だったでしょうか、幼稚園の絵の時間に始めて美術に触れたんです。墨で鯉やハスの花など、自由に好きなものを描いていました。幼い頃から、将来は芸術家になりたいと思っていたんです。小学生の頃、子供の日のプレゼントとして母から徐悲鴻(*)の伝記本をもらったんです。その頃は「将来は徐悲鴻のようになりたい」と思っていました。でも、その後、中学生でゴッホの存在を知り、「将来はゴッホのようになりたい」と思うようになりました。ある意味、非常に盲目的な夢だったといえますね。芸術家にとって人生とは何なのか、芸術家とは何なのか、全く分かっていませんでしたけどね。ただ、この「芸術家」という存在を盲目的に崇拝していたんです。それで、美術学院を選んだんです。

R:しかし、今では芸術家の道ではなく彼らをプロデュースする道を歩んでいるわけですが、芸術家の道をあきらめた理由は何ですか?

F:大学3年の時、アルバイトで北京の新聞『北京晩報』の記者をしたことがあるんです。中でも非常に印象に残っているのが、1999年に『北京晩報』に掲載したヴェネチア・ビエンナーレの記事です。その年のヴェネチア・ビエンナーレには、初めて多数の中国のアーティストたちが参加したんです。また、中国のアーティストが国際展に参加したという報道が初めて中国の正式なメディアに掲載され、多くの反響を呼びました。参加した数人のアーティストからは、報道してくれたことへのお礼としてごちそうしてもらったりしましたね。その頃から、アーティストではない別の可能性、記者という道もありだなと思うようになりました。

R:そして、大学卒業後、中国中央電視台の記者の仕事に就かれるわけですね。現代アートを紹介する番組の記者をされていたということですが、具体的にどのような取材、報道をされたんですか?

F:私が担当していた『美術星空』は、おそらく今現在までのところ、中国中央電視台が唯一ビジュアルアートを紹介していたんです。中国現代アートに関するニュースとアーティスト紹介など報道しました。例えば、2000年の上海ヴィエンナーレで蔡國強が花火を打ち上げた時のドキュメンタリーフィルムを制作したり、私と同世代の若手アーティストを取り上げたり。1970年代生まれのアーティストに関する番組を2、3回制作しましたね。テレビ局に入り、初めて関わった番組『70年代生まれ』では、テレビで初めて若手の現代アーティストを取り上げたんです。彼らの生活状況などを紹介しましたね。

R:また、房方さんは、2006年から『HI ART』というアート雑誌の発行人もされています。中国国内では、アート雑誌が年々増えているなか、雑誌の創刊に至ったのは何故ですか?

F:やはり、テレビ局の記者の仕事が影響しているんだと思います。メディアを通じてアートを紹介する必要があるからです。確かに、ここ数年、国内ではアート雑誌が多く創刊されていますが、お互い刺激し合っていいものを発表していけばいいんだと思います。そういう刺激がないと面白くありませんからね。 「798芸術区、夢がスタートした場所」 R:今年4月に星空間のアーティスト2人と初めて日本に行かれましたね。何か印象に残ったことはありますか?

F:一つ恥ずかしいことがありました。朝、電車に乗ったんですが、気がついたら私とアーティスト高瑀以外、乗客は皆、女性だったんですよ。後で気がついたんですが、その車両は「女性専用車両」だったんです。びっくりしましたね。また、女子高生のスカートの丈がものすごく短いこともびっくりしました。私が教師や男子学生だったら、授業なんてできないでしょうね。(笑)

R:北京オリンピックに対してはどのような思いがありますか?

F:とくに何も感じないですね。実は、私の両親共にスポーツ選手だったので、スポーツに対して……ちょっと反発していたんですよね。幼い頃、母親は自分の息子もきっとスポーツ万能と思っていたようで、強制的にスポーツを習わされたんです。まあ、今は好きですけどね。

R:残りの2008年、何か大きな予定はありますか?

F:年内、非常に重視している展示『找自己』(「自分探し」という意味)を開催予定です。そして、2009年か2010年には『遇見愛』(「愛に出会う」という意味)という展示を開催できたらいいなと思っています。

R:房方さんは10年後の中国、どのような姿になっていると思いますか?

F:私は予言者にはなりたくないですね。たとえ言い当てても、間違えてもどちらにしてもおろかだと思っています。ですから、10年後どうなっているかは、10年後自然に目にすればいいんです。

R:最後に、北京っ子の房方さん、やはり北京はお好きですか?一番好きな場所はどこでしょう?

F:北京、好きですね。北京出身でもありますし、私の生活の90パーセント、私の身内、私の苦痛、私の歴史はほぼこの土地に存在していますからね。そして、北京で一番好きな場所は798芸術区です。あるテレビドラマのタイトルで形容するとしたら「夢がスタートした場所」だからです。自分の理想を実現させた場所ですからね。

*798芸術区:北京北東部に位置する。1950年代に建設された国営工場跡地を利用し、ギャラリー、アトリエ、カフェ、デザインオフィスなどとして機能しているエリア。
*張国栄:レスリー・チャン。香港出身の歌手、俳優。2003年、自殺により他界。
*徐悲鴻:1895年、江蘇省生まれ 。中国の近代美術に影響を与えた画家。                           

(インタビュー:2008年4月7日)

房方に影響を与えた5人
[1]父親—−生活において最も大きな影響を受けた。
[2]尹吉男(*)−−美術史を学んだ過程で影響を受けた。
[3]欧陽春 (*)−−少年から青年への成長過程で影響を受けた。また、アートの見方を教えてくれた。
[4]伍勁(*)−−仕事のあり方を教えてくれた。
[5]ある女性—−愛とは何かを教えてくれた
*尹吉男:美術史学者、アート評論家、中央美術学院教授)
*欧陽春:星画廊所属のアーティスト
*伍勁:房方の仕事仲間

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