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彭磊 Peng Lei/ロックバンド新褲子(New Pants)のボーカル、映画監督、アーティスト、ブリキ玩具コレクター

1976年北京生まれ
1996年新褲子結成
1998年北京電影学院動画科卒業
1998年ファーストアルバム『新褲子』リリース
2000年セカンドアルバム『Disco Girl』リリース
同年、アルバムの一曲『愛情催泪弾』のMVが“1999年最優秀MVクリエーション賞”を受賞
2002年サードアルバム『我們是自動的』リリース
2003年『我們是自動的』がCCTV-MTV主催の音楽祭典にて“国内の新鋭バンド賞”を受賞
同年、MTV 主催の音楽祭典にて“最優秀MV大賞”を受賞
2006年4枚目のアルバム『龍虎人丹』リリース
2006年初監督映画『北海怪獣』完成
2007年7月北京にて初の個展開催
2007年2作目の映画『熊猫奶糖』完成
2008年3作目の映画『野人也有愛』完成
同年、5枚目のアルバム『野人也有愛』リリース
2009年6枚目のアルバム『Go East!』リリース
同年、第17回レインダンス・フィルムフェスティバル(イギリス)にて上映される。
2011年アメリカのコーチェラ・フェスティバルに参加。
同年、レコードとCDのツーバージョンとして7枚目のアルバム『Sex Drugs Internet』リリース
2012年9月上海での単独ライブが決まっている

http://site.douban.com/newpants/

「クリエイトすることは生活の一部」 R:中国では、彭磊さんのようにミュージシャンを本職とし、他のクリエイティブな領域でも精力的に活動をしている方はあまりいないと思うのですが、ミュージシャンだけでなくアーティストや映画監督にも活動を広げているのはどうしてでしょうか?

P:毎日、音楽活動をするだけではつまらないからでしょうね。それに、自分の興味のあることは何でも形にしてしまいたいんですよね。おそらく、人によっては生活が第一、あれもこれも手を出して何の意味があるの?と思うかもしれませんが、完成させれば、それなりに収益が出るものなんですよ。

R:やはり今後も引き続き、バンドのボーカルとして活動しながら映画も撮り、アーティストとして絵を描き続けたいと思っていますか?未だ踏み込んでいない分野での活動も考えますか?

P:もちろん、面白いと思えることは全て形にしていきたいですね。クリエイトすることは、すでに生活の一部になっていますし。ただ、具体的に次ぎは何をしたいのかはまだ見えていませんが。

R:また、2001年から最近まで北京市内の胡同(「路地」の意味)にフィギアなどを販売する玩具屋も経営されていました。そもそも、どうして玩具屋を経営しようと思われたのですか?

P:私自身が玩具が好きだからでしょうね。それに、当時、北京でマニアックな玩具を売っているお店はほぼありませんでしたから。今では、増えてきていますけど。

R:ご自身もブリキの玩具をたくさんコレクションされていますね。いつ頃からコレクションを始めたのですか?初めて手にいれたコレクションは何ですか?トータルで何体くらい所有されているのでしょうか?

P:1998年頃からコレクションしています。主に国内製のブリキ玩具が多いです。一番始めにコレクションしたのは車のブリキ玩具です。よく、北京の蚤の市などで買っています。今では1000体以上あるかな。新しい玩具と比べて、古いブリキの玩具はデザインが変わっていて味があるんですよね。

R:次はバンド新褲子に関して伺いたいのですが、1996年にバンドが結成されて、今年で12年目ですね。まず、新褲子結成に至った経緯を聞かせて下さい。

P:私が高校生だった当時、バンド活動は非常に流行っていましたし、おしゃれだったんですよね。今以上にバンドの数が多かったと思います。今ではポップミュージックが一番人気がありますが、当時はバンド、ロックが非常に熱かったんです。バンド活動をしていれば、女の子も自然と集まってきたわけです。

R:新褲子という名前の由来は?

P:バンド結成当初は別の名前で活動していたんですが、ある日、バンドメンバー皆、たまたま買ったばかりのジーパンをはいてライブに出演したんです。それを見た友人の一人が「ニューパンツだね」と。それから、「新褲子」になったんです。

R:大学卒業後は音楽だけで生活していたのですか?それとも、別の仕事をしながらバンド活動を続けていたのでしょうか?

P:卒業後は、色んな仕事に就きましたね。どれもアートと関係のある仕事ではありましたが。例えば、広告制作、ウェブデザインなど。ただ、欠勤が続いたりして、辞めさせられたりもしましたけどね。去年も別の仕事もしていたんですよ、実は。(笑)

R:え?そうなんですか?

P:国が発行している雑誌の編集をしていたんです。別に毎日出勤する必要もなく、非常に楽な仕事ではありました。ただ、1ヶ月ヨーロッパでのライブツアーが入ってしまい、その仕事も続けられず結局辞めましたけどね。今後は、別の仕事に就くことなく、音楽、アート活動に専念したいですね。

R:以前と比べて、音楽だけでも楽に生活ができるようになったのでしょうか?

P:そうですね。2005年以降、上り調子といえるかな。2000年頃から2005年の間は、ポップミュージックが大流行していて、ロックなんて見向きもされなかったんです。でも、2005年以降、ポップミュージックに飽きた若者がロックを聞くようになった。ここ数年、ロックやバンドブームと言えるんじゃないでしょうか。 「様々なスタイルが、若者にうけた」 R:12年間バンド活動を続けてこられた大きな要因はなんでしょうか?音楽を辞めようと思ったことはなかったですか?

P:もちろん、辞めようと思ったこともありましたが、今辞めてしまっては非常に残念という思いが強かったんですよね。それに、もし音楽活動を辞めてしまったら、普通の人の生活と同じでつまらないと。儲かる職業ではありませんが、自分の思いを形にできる、非常に特殊な職業だと思っています。

R:7月19日にも北京で新褲子の単独ライブが開催されました。関係者によると、毎回、新褲子の観客動員数は他のバンドと比較しても圧倒的にトップだと聞いています。また、ここ数年、国内外でのライブも増えていますよね。ご自身は自分たち新褲子のどの部分に人気があると思っていますか?

P:きっと、私たちの音楽が面白いからじゃないですかね。一つのスタイルだけに固執するのではなく、様々なスタイルを取り入れた音楽を発表している、その点が他の中国のバンドと違い、若者にうけたんでしょうね。

R:7月19日の単独ライブでは、新曲『野人也有愛』がお披露目されました。90年代のヘビメタスタイルを取り入れたそうですが、今回は何故、ヘビメタなのでしょうか?

P:90年代、学生の頃よく聞いていたのがヘビメタだったんです。今の若い子たちは、聞かないですからね。ある意味レトロで懐かしい感じとして取り入れ、今の若い子たちには新鮮な音として感じて欲しいと思ったんです。

R:彭磊さんご自身は、日頃、どのような音楽を聞くんですか?

P:古いのばかりですね。70年代、80年代に流行った海外のロックなど。最近の音楽はあまり好きでなないんですよね。何でかは分かりませんが。日本の音楽でいうと、YMOは好きですね。また、SUPERCARは全アルバム持っています。大好きですね。日本の映画『PINGPONG』で彼らの存在を知ったんです。それに、彼らの音楽はどことなく私たち新褲子と繋がるところがあるのかなと。 レトロな音源も入っているんだけど、非常に新鮮。エレクトロニックとバンド、両方が含まれていのが共通点といえるかなと思います。

R:これまでに4枚のアルバムがリリースされていますが、どのアルバムにも必ず「愛」をテーマにした曲が含まれていますよね。彭磊さんにとって「愛」とは?

P:私が思うに、若い子たちが一番気になることといえば「愛」だからでしょうか。私たちの音楽は、そんな若い子たちへのメッセージなので。私自身、今ではそれほど愛に対して思い入れは強くないかな。もう若くないですし。(笑)

R:また、80年代に流行したディスコミュージックを取り入れた音源がよく使われていますが何故でしょうか?

P:当時、よく聞いていたからでしょうね。また、80年代の音楽は今の音楽よりもとてもアバンギャルドです。今のカルチャーは、70年代、80年代に流行ったものが再来しただけなんですよ。だから、今の流行ものにはあまり新しさが感じられないんです。やっぱり、80年代当時の物は好きですね。

R:幼い頃、海外の文化に触れる機会は多かったのでしょうか?

P:多かったですね。中でも、『Star Wars』は非常に印象に残っています。子供の頃触れた、初のアメリカ映画、初のSF映画でしたし。今でも『Star Wars』は大好きです。幼い頃、アメリカ映画はよく見ていましたね。

R:それでは、中国の映画や文化に対してはどうご覧になっていますか?

P:張芸謀の初期の作品は好きですね。最近は、商業よりになってしまっていますけどね。他には、賈樟柯(*)の作品も好きですね。ただ、最近の中国の文化はどれも海外の物まねでつまらないかな。

R:日本の文化、サブカルチャーはもちろん好きなんですよね?

P:もちろん大好きですね。最近は、日本映画でいうとホラーものが好きです。幼い頃は、『ゴジラ』『鉄腕アトム』などをよく見ていました。中国では『ゴジラ』のような作品は制作されないでしょうね。家をつぶしてしまったりするから。(笑)岩井俊二の作品は、ストーリーは非常に重いけれど、映像が奇麗ですよね。

R:同じアジアだけれど、日本と中国は違うなと感じますか?

P:日本は、昔の中国のようなのかなと。昔の中国は今よりも文明的だったと思います。あまり、詳しくはないですけど。今の中国は、全然文明的ではないですね。 「私たちの世代は何をするにも戸惑い、弱気」 R:また、4枚目のアルバム『龍虎人丹』の中に「御宅」という曲があります。今、中国でもいわゆる「おたく」な若者が増えてきていると思うのですが。

P:そうですね、非常に増えてきていると思いますよ。私の親しい友人の中にも、一日中、家でずっとゲームをしている「おたく」がいますよ。私自身はゲームはしませんし、家にいるよりも外出したいタイプなんですよね。そういう意味では、私は「おたく」ではないでしょうね。(笑)

R:ライブ会場には、圧倒的に80年代、90年代生まれの若者が多く見に来ていますが、日頃、彼らと接していてジェネレーションギャップなど感じますか?

P:やはりギャップは感じますね。80年代以降の世代は、物事を軽く考えすぎる傾向にあるのかな。また、私たちの世代は何をするにも戸惑い、弱気なんですが、彼らは自分の興味あることには積極的にとびつきますよね。一方で、面倒くさがりな人間も多いかな。80年代以降の世代はお金持ちの家庭の子が多いので、両親に甘えている人も目立ちますね。

R:次は、バンドの話から離れて、映画監督彭磊としてのお話を伺います。北京電影学院動画科を卒業されていますが、どうして北京電影学院を志望されたのでしょうか?

P:他の大学は難しかったからでしょうか。(笑)というのも、もし絵画を学ぶとなると中央美術学院を受験するのが一般的ですが、私にとっては難関だった。中央美術学院が駄目でアートが勉強できる大学となると、北京電影学院か中央戯劇学院(*)という選択だったわけです。

R:絵を描くことは昔から好きだったんですか?

P:子供の頃から絵を描くことは好きでしたし、美術の専門学校に通っていましたからね。それに、私の父はアニメ作家なんですよ。80年代はそこそこ名の知れた作家でした。今でも描いていますよ。父も自分の子供には美術をさせたいと思っていたみたいですしね。

R:学生時代にも作品は制作していたんですか?

P:アルバイトで、子供向けテレビ番組のアニメを制作してました。卒業後も制作していましたよ。

R:初監督映画『北海怪獣(Peking Monster)』を撮ろうと思われたいきさつを教えて下さい。

P:当時、何か面白いことをしたいと思ったんですよね。それじゃあ、映画でも撮ろうかなと。(笑)また、80年代に北朝鮮の故金正日が怪獣をテーマにした映画を制作したんですが、テレビでその情報をみて「だったら、中国版の怪獣、ゴジラ映画もありだろう」と思って。2004年に撮影をスタートさせ、2006年に完成しました。

R:映画の中では実写部分だけでなく、クレイアニメなども登場します。また、新褲子のMVや個展で発表された作品にもクレイアニメを取り入れていますね。

P:中国では、クレイアニメを制作している人がいなかったんですよ。また、子供の頃、海外のクレイアニメを見て衝撃を受けたんです。それで、自分でも制作してみようかと。音楽活動を休止して、1年間、クレイアニメ制作に時間を割いたということもありました。

R:そして、7月19日のライブでは二作目の映画『熊猫奶糖』も上映されました。

P:女性同士の愛情をテーマにした作品です。中国ではここ最近、女性が女性を好きになるケースが増えてきているんです。男性に失望し、女性にはしるという。

R:撮影場所は北京ですか?

P:北京だけでなく、中国各地で撮影しました。ライブで訪れた街で撮影場所を探し、ライブに来た観客の中から出演してくれる人を探して撮影しました。二作目は一作目と比べるとキャストが少ないので、撮影はそれほど大変ではありませんでした。

R:二作とも中国ではあまり見ない若者をターゲットにした作品ですよね。毎回、上映会場は若者で満席です。会場に入れないで泣く泣く帰ったという人も多数いたと聞きます。

P:中国の大部分の映画は、農村をテーマにした作品か歴史ものが圧倒的に多いですね。若者をターゲットにした作品は、ほとんどないと言っていいと思います。賈樟柯(*)の作品は他の監督の作品と比べて、飛び抜けて傑作だとは思いますけどね。三作目の映画を制作途中なのですが、新作は、これまでの2本と比べるとアート色は強くなく、喜劇の要素が入った作品になります。撮影をスタートさせてからすでに1年経っているのですが……まだ撮影が終わっていないんですよね。(笑)

R:次は、アーティスト彭磊としてお話を伺いたいのですが、2007年に北京で初の個展を開催されました。

P:ここ数年、アートが盛り上がっていますからね。アートの世界もありかなと。(笑)

R:私も個展を拝見したのですが、油絵やインスタレーションには、昔、中国の家庭でよく使われていたという「便壷」が登場します。それは何故ですか?

P:数年前、トイレのない部屋で生活していたことがあり、朝起きるとまず、「便壷」を奇麗にすることから一日がスタートしたんです。当時の生活が非常に印象的で、それから「便壷」を作品に描くようになりました。もちろん、幼い頃、平屋で生活していた頃にも使用していました。



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