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喬小刀 Qiao Xiaodao/その時々で肩書きは変わる。平面デザイナー 、クリエイターのマネジャー、ミュージシャン、キュレーター、アーティスト……など(本人談)

本名、 喬西
喬小刀という名前は、たまたま縁があってつけた。名前は、ある時期がきたら変える。変えることで、自分自身を更新させる
1976年黒竜江省生まれ
中学卒業後、左官、大工、アーク溶接工など仕事を転々とする
1998年黒竜江省から北京に移り住む。その後も仕事を転々と
2002年小さなデザイン会社を設立
2005年古筝ユニット「反調劇」結成
2006 年姪、喬木楠とのユニット「大喬小喬」で国内巡演
2007年「大喬小喬」のファーストアルバム『消失的光年』リリース
2008年アトリエ「微薄之鹽」(「微量の塩」という意味)を正式に設立
2011年書籍『好的生活没那麼貴』出版
2012年「大喬小喬」再結成。アルバム『漁樵問答』リリース

http://blog.sina.com.cn/qiaoxiaodao

「塩は、量が増えれば味が出る。人間は、集まれば大きな力になる」 R:喬小刀さんの存在は、2007年の大声展(*)で知りました。麻布で制作した『月経』という書籍作品を出品されていましたね。ご自身がデザインされた図案を自作の詩と共にシルクスクリーンで形にした作品でしたね。来場された皆さん、興味津々でページをめくっていました。

Q:『月経』のアイデアは、2005年にありました。2005年は、私にとって非常に重要な年だったのです。2002年に自分が設立した会社もうまくいかず、将来に対して不安でいっぱいだった年でもあるんです。孤独な中、音楽活動をしてみたり、印刷技術を研究してみたり。また、古筝(*)を始めようと思ったり、『月経』のアイディアが生まれたり、2005年は多くの奇妙なアイデアがわいた年でもあるんです。私の第二の人生がスタートした年と言っても過言ではないですね。

R:何故、素材に紙ではなく麻布を選ばれたのでしょうか?

Q:まず、何故私がシルクスクリーンを始めたのかを先にお話しさせて下さい。シルクスクリーンには、ガラス、メタル、携帯電話、ペン、木……など、どのような素材にも印刷することができるという特徴があります。様々な業界を研究しましたが、シルクスクリーンの技術が得られれば、活動できる領域が広がると思ったんですよね。そして、私が何故、麻布を使用したのかということですが、なにより麻布はシンプルですし、紙の質感とは違って、触りたいという気持ちが生まれますからね。

R:『月経』には自作の詩が印刷されていますが、詩は、いつから書き始めたのですか?

Q:2002年からです。すでに、300作以上ありますよ。今は、詩が書けるような精神状態ではないですね。詩を書くには、とにかく孤独でなければならない。2001年に会社を辞め、半年間、国内を旅しました。自分の将来に対し、多くの迷いが出てきた頃でした。サラリーマンを続けるのか、自分で何かを始めるのか……。その後、2002年に自分の小さなデザイン会社を設立しようと決めたんです。2005年まで詩は書き続けていましたね。そして、『月経』が生まれたわけです。

R:アトリエの名前『微薄之鹽』(微量の塩)、名前の由来はなんですか?

Q:前に住んでいたアトリエの契約更新日が2008年1月1日だったので、それに合わせて2008年1月1日に今のこの場所に移ってきました。アトリエは2007年に設立したんですが、名前は、ここに移ってからつけました。中国の成語に「微薄之力」というのがあります。「微力」という意味ですが、増えれば大きな力になるんですよね。塩もわずかだと薄味ですが、量が増えれば旨味が出てくる。人間も数が集まれば大きな力になるものなんです。自分でもとても気に入っていますね。

R:印刷機だけでなく、展示スペースや録音スタジオも完備していますね。それらを無料で貸し出しているとのことですが。

Q:はい。『微薄之鹽』は非営利スペースなんです。何か表現をしたい人にこのスペースを活用してもらい、夢を実現してもらえたらという思いから設立しました。ただ、ふたつの条件があります。10年以上あきらめずに夢を追ってきたということ、私との付き合いが4年以上あるということ、そのような方に対して提供しています。何故、私との付き合いが4年以上必要かといいますと、相手の性格を知る必要があるからです。制作する過程において、多くの人間との関わりが出てきます。その際、制作者の性格を把握しておかないと、その人間が果たして技術者であるプロの人たちと上手くやり取りができるのか判断できないからです。そして、制作者の夢を分析し、実際にかかる費用をはじき出し、どうすれば夢が形にできるか彼らと一緒に考えるのです。CDでいいますと、既に4枚リリースしました。手元には、10枚のリリース予定のCDがあります。

R:中には、CDにするのも忍びないような、できの悪い音楽を持ってくる人もいるんじゃないですか?

Q:ええ、多いですよ。でも、下手でもいいんです。その人が10年以上ずっと歌を作り続けてきたという意欲をかいたいんですよね。もし、売り上げを重視するのでしたら、もちろん、できのいい音楽、制作者の外見などにこだわりますが、私のやっていることは利益目的ではないので。版権は制作者側にあり、売り上げも私は一切もらいません。

R:どうしてですか?

Q:私も彼らと同じ道を歩んできたからです。彼らの苦労が十分分かるからです。例えば、音楽でいうと、発表したい作品はあるのに、自分の力だけではCDリリースができないという人間がたくさんいるんです。幸い、私の周りには、レコーディングプロデューサー、デザイナー、カメラマンなど技術面でヘルプしてくれる人間がたくさんいるので、彼らの力を借りて夢を実現させてあげるんです。ただ、印刷、制作となると費用が必要になります。その時、国内の企業をスポンサーにつけるんです。すでに、100あまりの企業と連絡が取れる関係にあります。私の周囲には、頼もしい人脈、すばらしい人材、そして、何よりも他人の手助けをしたいという心を持った人間がたくさんいるんですよ。

R:お話を伺っていますと、スポンサーになりたいという企業はたくさんあるようですね。でも、企業自ら進んでクリエイターをバックアップするということはないのですか?

Q:お金のある企業は多々あるのですが、彼らは、どのようにバックアップしたらいいのか分からないんですよね。一方、クリエイターたちも、自分の思いを表現するのが苦手なんです。ですから、私は彼らの間に立ち、マネージャーのように企業とクリエイターそれぞれが損をしないようにもっていくんです。 「大きな代償なくしては、大きな収穫を得ることはできない」 R:喬さんご自身も色んな方のバックアップがあって、ミュージシャン、アーティストとして作品が発表できたわけですね。

Q:2007年にCD『消失的光年』をリリースした後、皆さん、私のことをミュージシャンだと思っているようですが、私自身、音楽やギターのことは全く分かっていません。歌が上手いわけでも、ギターが上手いわけでもないんですよ。ただ、他人よりも度胸があるんでしょうね。皆、実行に移す前から、あれこれ悩み、戸惑い、自信がなくてあきらめてしまうんですが、私は他人が何を言おうと構わない。他人のことをあれこれ言う時間があったら、その時間を自分に費やしたらいいじゃないかと思ってしまうんですよね。CDをリリースしてからは、昔、私のことをけなしていた人間は何も言わなくなりましたよ。(笑)私の歌は、本当に聞けたもんじゃないんですけどね。(笑)

R:CD『消失的光年』を聞かせていただきましたが、喬さんの歌声、ひどいとは思いませんでしたよ。

Q:(笑)それは、CDで聞いているからですね。ライブで聞けば、私の歌声がいかにひどいか分かりますよ。CDの音は、多くの技術者によって欠点を消してもらった結果ですからね。誰だって、物事を始めた頃は、他人から避難を浴びたりします。それでも、あきらめずに続けることです。あきらめずに、ひとつ、ふたつ、みっつと形にしていくんです。人間は皆、前進しています。今日はまだ幼稚でも、その幼稚さは一生続くわけではないのです。明日には、数日後には成長しているものなのです。

R:強い信念をお持ちなんですね。

Q:仏教の教えでいいますと「大事大得、小事小得、不事不得」を信じています。「大きな代償なくしては、大きな収穫を得る事はできない」ということです。私は外出する時、必ず鞄の中にたくさんのグッズを忍ばせておくんです。私の作品だけに限らず、バックアップした若手クリエイターのグッズなどを知り合った人にプレゼントするんです。そうすることで、私やクリエイターの存在がより広まるわけです。ですから、私と知り合った人の中には、私からのプレゼントを持っていない人はいないんですよ。人から人へ伝わっていく。一人の人間のバックには、10人の人間がいる。一人の人間と知り合えば、そのバックの10人ともつながる。様々なジャンルの人間とつながるわけです。

R:人をバックアップできるということは、今、喬さんの精神状態、生活状況は安定しているということですね。

Q:そうですね。もし私自信お腹がすいていたら、他人を助けようという気持ちなんて生まれませんからね。なんとか食べることができるようになったので、手助けが必要なクリエイターの背中を押していきたいと思っています。10年実現できずにきた彼らの夢を、形にしてあげたいんです。また、人間は常に学ぶ心が必要だと思っています。中国で生活をすると分かると思いますが、例えば、中国の北部出身者と南部出身者では気質が全く異なります。北部出身者は、自慢したりほら吹きが多いといえます。私も北部出身ですが、北部出身者のこのような欠点を自覚して、南部出身者の細やかさ、利益重視の心を学ぶようにしています。私は、知り合った人誰もが自分の師だと思っています。

R:去年、『大声展』に参加していた喬さんは、今では『大声展』のディレクター、欧寧さん(ROOT.2参照)と同じ立場にいるわけですね。ご自身も色んな方からの手助けがあって今までやってこられたということですね。

Q:ええ、そうです。私も人からの手助けがあってやってこられたんです。特に、3人の方には非常に感謝しています。まず、一人目は2000年、私が働いていたウェブサイトの会社の社長です2001年に会社は倒産したんですが、社長は、会社のパソコン、コピー機などを無償で私に譲ってくれました。彼のおかげで、自分自身の小さなデザイン会社が設立できたんです。二人目は、2001年から2003年に非常にお世話になった方です。ウェブサイト会社を辞めてから住む場所がなくなった私に、36平米の空間を無償で提供してくれたんです。3人目は、同じく2001年から2003年にお世話になった方で、事務所を無償で提供してくれたんです。それで、デザイン会社が設立できたんです。もちろん、彼ら以外にも大勢の方の助けを得て今までやってきました。私自身、人助けをすれば、それに見合うだけの収穫があると信じています。

R:誰もが夢や願望を持っていると思うのですが、それを形にするというのはそう簡単なことではありませんよね。

Q:確かにそうです。でも、多くの人が「時間がない」「お金がない」「できない」と口にするんです。よく皆から「喬小刀、何でそんなに時間があるんだ?」と聞かれますが、人間に与えられた時間は皆、平等です。広い北京であれこれ物事を進めるのは、確かに時間がかかることではありますが、いつもより50字多めに書く、いつもより多めに活動してみるんです。あれこれ思いを口にするだけでなく、実行しないことには始まりません。

R:例えば、 喬さんがサラリーマンで、毎日、会社や組織の中で仕事をしていたとしても、自分の夢や願望をかなえようとしますか?形にできますか?

Q:できますね。実際、2000年、会社員としてでウェブサイトデザインをしていましたし。当時、仕事が終わってから、会社のパソコン、コピー機、印刷用紙を使って自分のやりたいことをやっていましたよ。(笑)サラリーマンだって、形にしたいという気持ちがあればできるものなんです。

R: 喬さんは本当に多くの肩書きをお持ちですよね。

Q:私の肩書きは、その時々で変わるんです。おそらく、20くらいの肩書きがあるんじゃないかな。(笑)30数人のクリエイターのマネージャー、ミュージシャン、グラフィックデザイナー、アーティスト……。最近では、北京オリンピック閉幕式の映像総括を任されました。今まで、映像総括なんてやったことがなかったんですけどね。(笑)会場のスクリーンに流す映像のデザイン、編集など全て任されました。ですから、常に肩書きが変わるんですよ。でも、どの肩書きもあきらめたわけではないんです。以前の肩書きを利用して、新たな肩書きで活動しているだけなんです。しかも、どれもアートと関係がありますしね。全く違う業界で活動しているわけではありません。

R: 一つの肩書きで活動しようとは思いませんか?

Q:興味のあることは、全てやってみたいんですよね。でも、自分自身はっきりしているのは、これまで活動してきた肩書きを総括して、このアトリエを一つのメディアにしたいんです。今は、とにかく様々な分野の人間と関係をもち、今後、メディアを設立し、クリエイターを紹介していきたいんです。

R:そのような考えはいつ頃からあったんですか?

Q:正直いいますと、今のこのアトリエに移ってきてから、2008年に入ってからなんですよね。本当に不思議なんですが、この場所に引っ越してきてから、人が集まるようになったんです。自分から動かなくても、気がついたら周りには多くの人がいました。ですから、今の環境が私の思考を広げ、多くの人間をもたらしてくれたといえます。

R:2005年に結成した音楽ユニット「反調劇」の話を聞かせて下さい。どのようないきさつでユニットを結成したんですか?

Q:2005年、まずギターを手にしたんですが、周りの友人たちからあまりに下手だとけなされ、ギターをあきらめたんです。ギターが駄目なら何にしよう?と考えた時、中国の伝統楽器が頭に浮かびました。古琴は音量が小さいので、駄目。楊琴は、元々中国の楽器ではないのでこれも駄目。だったら、古筝がいいんじゃないかと。それに、古筝が演奏できるようになれば、海外にも行けるんじゃないかとも思ったんです。(笑)ただ、相変わらず古筝も下手で、じゃあ、どうしようと考えた時、古筝演奏者と知り合ったんです。それで、ユニットでも組もうかと。年内、CDリリースを予定しています。

R:そして、2006年には、また別の形で音楽活動をされました。姪の喬木楠さんとユニット「大喬小喬」を組み、地方にライブの旅に出ましたね。何故、地方だったのでしょうか?

Q:もし北京でライブをしたら、すぐに知れ渡りますからね。「あんなにも演奏が下手なのに、よくライブなんてやるよな」ってね。(笑)地方の人たちには、私の演奏が間違ったとか分からないんですよ。(笑)地方で成功してから、北京でライブをする。そうすれば、話題にも上がりますよね。

R:でも、何故、一人ではなく姪とのユニットだったのでしょうか?

Q:デザインの視点から学んだんですが、デザインには「黒、白」「静、動」「大、小」などの対比が必要です。その要素を、音楽に取り入れたんです。静かに演奏する人間と過激な演出をする人間、それが私と古筝演奏者のユニット「反調劇」。「大喬小喬」にも相反する要素を取り入れたわけです。大人と子供のユニット、このコンビだと皆、興味を持ちますからね。

R:そして、翌年リリースしたCD『消失的光年』は、メディアからも注目を集めましたね。

Q:2007年にCDをリリースする前、十分なリサーチをしたんです。今、いったいどのような音楽が大衆に受け入れられているのか、国内のミュージシャンがどのような音楽を発表しているのか、メディアは彼らをどのように評価しているのか、売り上げがどれほどあり、人気があるのはどのCDなのかなど。私は、物事を始める際、分析やリサーチを欠かしません。ですから、『消失的光年』が話題に上がったんです。その後、ユニットを解散しました。メディアに出ることもありませんし、二枚目のCDリリースもツアーも今は考えていません。



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