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方振寧 Fang Zhenning/アート・建築評論家、インディペンデントキュレーター、平面・空間デザイナー、写真家など

江蘇省南京生まれ
1982年中央美術学院版画科卒業
1983年中国のアート雑誌『美術』にて編集。3ヶ月で退職
1983年12月中国中央電子台(CCTV)、ドラマ制作部にて美術担当
1984年故宮博物院の紫禁城出版社にて編集、デザイン担当
1988年8月日本に渡る。アーティストとして、版画、パブリックアートを発表
1995年横浜美術館アートギャラリーにて個展
1999年中国に戻る
2004年FANG Mediaの名義で評論を始める。拠点を北京に移す
2006年ヴェネチアビエンナーレに合わせ、ヴェネチアにて初の建築展のキュレーション
2007年北京にて初のアート展をキュレーション
同年、北京にて写真の個展『界面(INTERFACE) 』を開催。また、アートスペース「FANG ART」を設立

http://blog.sina.com.cn/fangzhenning

「中国、国際スタンダードを認可せず、新たなスタンダードを生み出す」 R:これまで、ROOTで紹介したクリエイターの中には、方振寧さん同様、多数の肩書きを持っている方が数人いました。方振寧さんご自身は、肩書きに対してどのようにお考えですか?日本での生活も経験され、日本通の方振寧さんもご存知のとおり、日本には多数の肩書きを持っている人は中国ほどいないように思います。

F:まず、「肩書き」という概念は、西洋からきたものです。日本には肩書きが多い人はあまりいませんね。肩書きが多い人間を認めないという傾向にあります。また、日本は、国際的な基準を認可しています。しかし、中国は中国以外の基準を認可しません。例えば、今の中国のアートマーケットをみてもわかると思うのですが、規律が破られていますよね。オークション会社は、作家から直接作品を購入することは許されていなかったのですが、ここ最近、その行為が認められ、また、西洋でも同じような行為が取られるようになっています。中国が国際的な基準を認可せず、新たな基準を生み出した。このことは、肩書きに対してもいえることなのですが、わざと肩書きを増やしているわけでは決してないんです。また、誰もが多くの肩書きを持てるわけではありません。その人の能力と関係があるからです。また、私の場合ですと、ある時期ある肩書きで仕事をし、次はまた別の肩書きで仕事をするというのではなく、同時に多くの肩書きで仕事をしているわけです。例えば、ある展示をキュレーションする。キュレーションだけでなく空間デザイン、カタログデザイン、撮影、評論も手がける。自分で納得のいく形に仕上げたいからです。ある一定の能力が備わり、多くの経験を経て初めて多くの肩書きで仕事ができるわけです。

R:それでは、方振寧さんが今最も重要視している肩書きはどれですか?

F:評論でしょうね。もちろん、自分で書いた評論を発表する場が必要になってきます。雑誌や新聞にも発表していますが、ネット上では、時差なくすぐに発表することができます。私にとって評論は、最も長期にわたり携わってきた「道具、武器」といえます。

R:文章を発表することは、いつから始められたんですか?

F:1996年から発表しています。以前は、文章らしい文章を書いたことはありませんでした。おそらく、中国語で評論している人間の中では、私が最も数多く発表しているんじゃないでしょうか。1996年からこれまで、文章が途絶えたことはありません。そして、1999年にブログをスタートさせました。当時はまだ、「ブログ」という概念はありませんでしたので、「日誌」といって発表していました。毎日更新していましたね。当時、中国ではまだデジカメは販売されていませんでしたが、私は日本にいましたのでデジカメを購入し、撮影した写真も合わせて発表していました。中央美術学院の「ART NEWS」というウェブサイト上でコラムも担当していました。中国のウェブサイトで、デジカメで撮影した写真を発表した人間の中では、私が最も早かったと思いますよ。

R:ブログを通じて仕事の依頼がくる場合もあるんですよね?

F:ありますよ。評論の影響力は非常に強いですからね。私の文章を読んだ多くの方が、他の評論とはひと味違うと感じるみたいですよ。テレビの取材、文章掲載の依頼などがきますね。ですから、ネットは非常に使える道具ですよね。

R:何故、ブログを続けているのですか?発表したい事がたくさんあるからでしょうか?

F:まず、表現したいという欲望からでしょうね。また、ブログを書くことは、思考の訓練、整理にもつながります。

R:中央美術学院版画科を卒業されていますが、美大を選択されたということは、やはり美術が好きだったのでしょうか?身近に美術がある環境だったのでしょうか?

F:父親が版画家だったんです。また、伯父も画家で、伯父は、当時中国で有名だった画家の下で絵画を習っていました。幼少期からアートのある環境のもとで育ちました。ですから、自然に私自身も絵画を習うようになったんです。

R:父親の影響は受けていますか?

F:ええ、やはり彼の影響力は強いと思いますね。絵画もそうですが、父は写真も撮っていました。カメラをいじっている姿や暗室で現像している姿をよく見ていました。でも、父は、私にカメラのことは何も教えてくれませんでしたけどね。当時、そのような環境のもとで育った子供は少なかったと思いますよ。今、私自身もっている「高級志向」という精神も、幼少期から芽生えたんでしょうね。常に一流のモノ、人間と接していたいという。また、私の先祖の話になりますが、先祖は明の時代の文人、方以智、清の時代の桐城派の文人、方苞なんです。これまで、メディアで私の先祖のことをほとんど語ったことがないのですが。おそらく、日本語で発表されるメディアでは、初めて先祖のことを語ったと思いますよ。(笑)先祖のことを語るのはあまり好きじゃないんですよね、本当は。でも、私もいずれは、文人になりたいと思っています。

R:文学がお好きなのも、やはり先祖と関係があるのでしょうか?

F:文学は大好きですね。私の書く文章は、他の人の表現とまったく違うでしょう。文学に対する能力は生まれつきだと思っています。自分自身でも驚くことがあるのですが、あるモノを見たとき、自然と若い感覚の表現が出てくるんですよね。

R:幼い頃から、よく本は読んでいらしたんですか?

F:もちろん、よく読んでいましたね。中学の時に読んだある文章の中で、日本の中国文学者の吉川幸次郎が中国の豊子愷(*)のことに触れ、「陶渊明以来、最もレベルの高い文人だ」と発言していたんです。何故、日本人が豊子愷のことをここまで評価するんだろうと。とても印象的でした。 「中国的要素をいかに現代的に転換するかが重要」

R:大学卒業後のお話を伺いたいのですが、卒業後、初めて就かれた仕事は何でしたか?

F:当時、中国では、国が仕事先を手配するという制度でした。自分たちは自由に選択できなかったんです。卒業後すぐに就いた仕事は、『美術』という国が発行していたアート雑誌の出版社での編集の仕事でした。それまで文章を書いたことがなかったので、本名を掲載するのが怖くてペンネームを使用していましたね。その後、会社は私を必要なくなった、いわゆる「くび」になりました。3ヶ月しかそこにはいませんでしたね。ただ、その3ヶ月の間、私は非常に重要な仕事をしました。初めて、雑誌のレイアウトを手がけたのですが、その際、字体を変更したり、当時の中国では誰もやっていない新たな試みをしたんです。当時、中国美術館で開催されていたフランス画家の作品を見たのですが、そこから得たインスピレーションをレイアウトに取り入れました。

R:『美術』の編集を辞められてからはどうされたんですか?

F:その後、中国中央電子台(CCTV)でドラマの美術を担当していました。そこも、一年しか続きませんでしたけどね。というのも、ドラマの監督から「君はセンスがいいから、カメラマンにアドバイスをしてあげてくれ」と言われたんです。その後、カメラマンは私があれこれ指示するのが気に入らなかったんでしょうね。喧嘩になってしまったんです。私がここにいる必要はないなと思い、辞職しました。その後、故宮博物館の紫禁城出版社に務めました。

R:出版社では何をされたんですか?

F:それまでに経験したすべてに関わりました。編集、執筆、レイアウトデザイン、撮影。テレビ局での仕事以外の全ての経験が活かせたんです。5年間働きました。私がデザインした書籍が、中国平面デザイン展で入賞したんです。故宮の要素を分析し、色彩や構造などを取り入れデザインしました。当時、故宮の要素をデザインに取り入れたように、今でも平面デザインをする時は、中国的要素は必ず取り入れています。

R:方振寧さんのおっしゃる「中国的要素」、もうすこし具体的にお話いただけますか?

F:私のいう「中国的要素」は「中国的シンボル」ではありません。両者はよく混同されがちですが、「中国的要素」では、中国文化や芸術遺産にみられる独特なモノをいかに現代的に転換できるかが重要なんです。

R:日本にはいつ行かれたんですか?

F:実は、日本に渡る前、パリでアートの勉強をする予定だったんですが、手続き上のミスなどで残念ながらパリには行けなかったんです。その後、1988年、日本人の奥さんと一緒に日本に渡りました。まず、成田空港に降りてすぐ、空港内の男性トイレで聞いた女性アナウンスにはびっくりしましたね。(笑)男性トイレに女性の声が流れるなんて……と。ゆっくり用も足せないよなんてね。(笑)日本での生活がスタートし、自宅からすぐの展示スペースでインドのアート展が無料で開催されていました。自宅すぐの場所でしかも無料でこんなすばらしい展示が見られるなんて、信じられなかったですね。また、銀座でごちそうになった寿司。中国でも寿司は食べたことあったのですが、目の前で寿司をにぎるのを見たのも初めてで、寿司職人が寿司を握る姿は非常に美しいと思いましたね。それはまるで、書道の動作のようでもあり、感動しました。もうひとつ、中国で発行されていた『信使』という雑誌の日本特集の表紙に、日の丸弁当の写真が使われていたんですが、それは表紙の撮影用に作った飾り物だとずっと思っていたんです。しかし、日本で生活を始めてから、日の丸弁当は、日本の日常に存在するものと分かりました。非常に印象に残っていますね。 「日本のクリエイター、日本的要素をうまく取り入れた実践者」 R:日本に経つ前、中国で何か日本の文化などに触れる機会はありましたか?

F:映画でいいますと、高倉健主演映画などですね。また、北京で開催されていた日本を紹介する展示を見に行ったのですが、その際もらったシンプルな冊子も印象に残っています。和服姿の日本人女性が表紙で。日本に渡る時も持っていきましたね。ただ、20年経った今でも、中国人の日本に対する理解はまだまだ足りないといえますね。また、日本を紹介するいい展示がないということも大きな問題だと思います。当時、そのシンプルな冊子を読み日本に興味をもった。しかし、その後、中国で感動するような日本を紹介する展示やイベントにほとんど出会ったことがないですね。でも、私が初めて日本に触れたのは、中学生の頃なんですよ、実は。

R:中学生ですか。

F:偶然、NHKラジオの日本語講座を聞いたんです。聞きながら、中国語で日本語の発音を書き記して覚えていきました。例えば「わたし」を「蛙得西」(中国語の発音でwadexi)と書いたりして覚えていったんです。ですから、私は幼い頃から日本と縁があるんですよね。

R:先ほど「中国的要素」のお話を伺いましたが、逆に、方さんが思われる「日本的要素」は何でしょうか?

F:私の思う「日本的要素」とは、主にシンプルに重点をおいていることです。また、日常から物事の神髄を学び、曖昧で中性的な物を美しいととらえ、技術面では人間の感情を注ぎ込んでいる。日本の大多数の成功しているアーティスト、デザイナー、建築家は、「日本的要素」をうまく取り入れた実践者といえると思います。

R:話を戻しまして、1988年に日本に渡られてからのお話を聞かせて下さい。日本語はどうされたんですか?

F:まず、日本語学校で1年と3ヶ月勉強しました。会話は日常生活でなんとかなっていったのですが、日本語のアート関係の書籍を読むのは非常に大変でしたね。ハンガリーのアーティスト、ヴィクトル・ヴァザレリの本が読めた時は、とても嬉しかったのを覚えています。また、日本では、版画、その後パブリックアートを制作していました。1995年には横浜美術館アートギャラリーで個展も開催しました。その後、上大岡、博多、埼玉などでも発表しました。横浜美術館アートギャラリーで発表した作品は、「中国思想」からインスピレーションを得ました。先ほど話しました「中国的要素」、実は「中国思想」でもあると思っています。中国人の宇宙観に対する独特の見方、宇宙の軌道図の描写。私の作品は、この中国思想が現代に遭遇した結果生まれたといえます。

R:日本では、特にどこに時間を割いていらしたんですか?きっと、方振寧さんの心をくすぐるモノであふれていたのではないですか?(笑)

F:日本で生活をしていた時は、書店と展覧会めぐりに大部分の時間を割いていました。また、服が好きなので、服屋にもよく行っていました。今でも日本のブランド、特にNIGOは大好きです。

R:すでに53歳の方振寧さんですが、NIGOの服を着ている50代の中国人男性は、おそらく方振寧さんただ一人でしょうね。(笑)

F:私は常に新しいモノ、おしゃれなモノが好きなんです。精神状態も常に若いですよ。私は、文章にも新しい言葉を取り入れて表現しています。50代の人間が書かないような表現を用いています。

R:日頃、若い方とのお付き合いの方が多いのでしょうね。

F:ええ。20代、30代の若者との付き合いが圧倒的に多いですね。あとは、メディア関係者との付き合いでしょうか。



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